掲載報告からの、東北が私に与えてくれたこと
気が付いたら2月は1度もブログをアップしていなかった。
その割に、文章は書いていた。
ライターとして比較的重めの案件の締め切りが2本あったし、会社のメルマガも書いた。
新しいお取引先様も増えた。こちらは3月から稼働予定。
ステキな出会いもあったし、一生残る別れもあった。
このへんはまた、別のエントリーで書ければと思う。
さて、タイトルに戻って。
先日、朝日新聞さんが私のことを記事にしてくださった。
地方へGO!中/個人事業主呼び込む(2017年2月20日 朝日新聞)
私が主体というより、ランサーとしてお仕事をいただいているランサーズさんに取材が入って、事例として私を紹介してくださった…、というのが経緯なのだけれど、ものすごくいい機会をいただいたと思っている。
どう、すごくよかったか。いろんな見方がある。
・PRコンサルの目線で見ると、自分を売り込む素材としてこの掲載は非常にわかりやすい。
・ライター目線で見ても、同上。
ただ、上記は結構些末な話であって、どちらかというと、
・多様な働き方を自分の身で示せて、それを世に広める一助になれた。
・改めて、自分の歩んできた道を思い返して、東北と関われたことの偉大さを思い返せた。
私は、とにかく「自由」でありたいんだと思う。もちろん、ある程度の拘束、不自由はあって当然なんだけれど、その状況が「強制」ではなく「自由意志」で選べる状態であればいいと思っている。
たとえば、好きでだめんずと付き合うとかね(笑)
これは、その状況を楽しんでいる自分の自由意志があるからいいのであって、養いたくもないヒモが家にいて、しかも嫌なのに追い出せなかったら、ただの共依存かストーカーだ。
話がそれたけど、その「自由」というのが、今の私にとって、好きな時に好きな場所に行けて、自分やがりたいプロジェクトは社外のものでも自由の受けられる、というあり方であって、もしどこかに「そうは言ってもどこにも行けないし、やりたい活動もできない。」と思っている人がいたら、その人に「案外やれるもんよ。私はやれているもん。」と伝えたい。それでその人が少しでも思うがままの生き方をできるようになればいいなと思っている。
私は、フラストレーションを抱えた生き方ってすっごくナンセンスだと思っている。
私は離婚の時の経験上、「自分がハッピーでない人間は何者もハッピーにできない」と思っている。
私の場合、興味関心が「生き方・働き方」にあるので、その分野でできるだけ自分の思うがままに生きれるように工夫しているし、そういうあり方が広まったら、社会はもっと明るくなると思っている。
そして、東北。
落合さんが地方での暮らしに関心を持ったのは、東日本大震災がきっかけだった。脱サラして東北に移った友人を手伝った。岩手県一関市では自身の助言で規格外のシイタケが商品化された経験もある。「よそ者だから還元できることがある」。PR会社に勤める傍ら、許可された範囲でライター業も請け負う。東京を拠点に、自身が関わる各地域と行き来する「多拠点居住」が目標という。
あの時、「地震が起きて良かった」なんて絶対に思わない。
でも、あの時地震が起きなかったら、今の私もいなかった。
はじめて沿岸の様子を視察に行った際に、早朝の遠野で撮った写真。
この写真が始まりだったと思う。
この1時間後に私は釜石にたどり着き、TVで見た通りの光景が自分の足元から水平線まで広がるのを見て、何も言えなかった。
その、被害という意味での衝撃も凄まじかったが、その後の数年間で知り合った東北に生きる人たち、ゼロからそれぞれの理想を形にしていくイノベーターたちに、私は感化された。
ある人が言った。
『今の東北は幕末の京都だ。時代を変える志士たちが集まる群雄割拠の地。それが東北だ。』
その通りだと思って、東北から学ばせてもらおうと、東北に通った。
その経験がなかったら、私は今のように存在はしなかったと思う。
なので、記事を読んで、記事中で訪れた南砺市にはもちろん感謝だし、取材してくれた朝日新聞の井上さん、休眠ランサーだった私に活動するきっかけを与えてくれたランサーズさんにも当然感謝なんだけれど、一番の感謝はやっぱり東北なんだ、と思った。
気が付けば活動範囲が東北からどんどん広がって、ずいぶんご無沙汰してしまった人たちもたくさんいる。
「エイミーはもうこっちに関心がないんだ。」と思っている人もいるかもしれない。
いくら心だけ寄せていても、実際に足を運んだり、手を動かしたり、お金を落としたりしないと意味がないと指摘する人もいるかもしれない。
でも、それでも私は東北が好きだし、東北に育てられたし、東北がはじまりだった。
ありがとうございます。
その気持ちは、しっかり伝えたいし、残したい、そんなことを思った自分の掲載記事でした。
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