32歳の節目に全身で朝日を浴びに行ってきた

 

 

(最初に断わっておきますが長文です。。。)

hinode

2014年9月10日、32歳になった。

恐らく、節目の年になる一年の始まりだ。

たくさんの方にお祝いのメッセージを頂き、会社でも祝っていただいたけど、平日ということもあり、自分としては特に何もしていなかった。

そんな折、大切な友人と飲んでいて、非常に刺激を受けて、その人が以前から朝型をすっごく勧めていったこともあって、ふと思った。

朝日を見に、ツーリングに行こう。

朝日というのは、よく言われることですが命の再生を想起させるものです。
なんて、頭でっかちなことは脇に置いたとしても、やはり心が弾むし、エナジーを感じるものです。
よし、行こう。即決で判断。

朝日と言うと、自分には定番の場所があります。
今はすっかり名所になってしまった、山梨県の「ほったらかし温泉」。

TVなどにも取り上げられてすっかり人気になり、最近は直売所なんかも出来ましたが、元は名前の通り、受付けだけのシンプルな日帰り温泉でした。19歳で免許を取って以来、2年に1度くらいのスパンで行っています。

ここの素晴らしさは、何といってもそのロケーション。
山の上に作られた温泉は「ほったらかし」の名にふさわしい、完全露天風呂。
眼下には何の障害もなく甲府盆地が広がり、その向こうには、富士山も見える。
そして、そのロケーションを最大限に活かすため、営業時間を日の出の1時間前から22時までとしている。
つまり、日の出と日の入りを見ることができるのだ。
私が行くときは、100%日の出目当てに行く。
通い始めたときは、当時乗っていたレビンのAE101で行っていたけど、今はYAMAHAのDragStar250(07年式)。

baiku

クルマでドライブに行くときも、基本的に1人が多かったけど、バイクは必然的に1人なわけで、ぼんやり物事を考えるのにも最適。
そんなわけで、14日の明け方、東京を出た。

今回のツーリングには目的があった。
もちろんメインは日の出を見ることだけど、それによって、今の自分の立ち位置みたいなものをもう一回整理して、この一年間をどう過ごすか、決意をしたかった。だから、走りながら、ぼんやり自分のことについて考えていた。

目的地につくまでの1時間30分。
漆黒の闇から紺が生まれ、群青が目覚め、うすらピンクに染め上がり、緋が差すまで、色々なことを考えた。
「考えた(思考した)」というより、「思いにふけった」という方が正しいと思う。
自分の本質、子供の頃の思い出、東北のこと、大切な人たちのこと。
昔のことを唐突に思い出しては、次の瞬間には何を考えていたか忘れ、いろんな思いが混ざり合っては、堂々巡りをして、、、と、そういう感じ。
だから支離滅裂なので、うまく説明できないけれど、例えばこんなこと。

■子供のころから「道」が好きだった
首都高から中央道に入った頃には、うっすら空が明るくなり始めていた。中央道は都心を抜けるとすぐに山や森に囲まれる。山の中を一本まっすぐ走っている道を見つけたり、遠くにかかる橋を見たりすると、「あの道はどこに続くんだろう?」「その先が見たい」となる。そこから見える景色を空想するだけでワクワクする。
これは子供のころ、パパが良くドライブに連れて行ってくれた影響が大きいと思ってる。田舎って、娯楽が限られているから(笑)、一家の仕事が終わった後、夜になってからたまにドライブに連れて行ってもらった。
面白いのが、目的地を決めないドライブ。私の気分で、「次の交差点を右」とか、「遠くに見えるあの鉄塔まで」とか、私が興味を持った方向に向かってハンドルを切ってもらった。
乗り物好き、旅好きな性格はこの頃備わったのだと思っている。あと、一か所にじっとしていられない性格。

■本当はぼーっと空想したり、ひとつのことをじっくり考えるタイプ
一応東京で、そこそこの仕事を回している。朝から晩まで、いろんな案件に関わっている。
でも、本当はすっごくマイペースで、ひとつのことに集中するタイプだった。本人は芸術家肌だと思っている(笑)
子供のころは、家の廊下や、庭にござを敷いて、寝っ転がってずーっと空を見たり、風の音を聞いたり、いろんな空想をして過ごしていた。頭の中には、すごく鮮やかでオリジナリティあふれる発想が目まぐるしく駆け回っていた。
それが小学校中学年くらいから勉強中心の生活になり、社会に出てからは効率と粗利の2大標語に完全に支配されて、深く物事を考えられないことにフラストレーションを抱えていた。
そろそろ、自分のスタイルに戻していいように思った。

■価値観が一周してしまった
私は人より少し早く社会に出ている。夜間大学に通いでした19の時から、アルバイトだけどフルタイムで社会人の中に混ざって働いてきた。その時から、上記の夢想する性格をおさえて、「ビジネスになるか」「利益が出せるのか」「社会人としてまっとうか」という考え方が中心になっていった。
この時期~20代は対外的に自分がどう見えるかにも重きを置いていて、服は基本百貨店で買うものだと思っていたし、持ち物も無駄にいいものを買っていた。めったに載らない自転車に10万円出したり、、、笑。
それがここ一年くらい、そういう意識がなくなってきた。顕著だと思ったのが、あんなに大好きだったダミエのバッグを持ち歩くのが面倒になってきた。それより岩手の作家さんが作ったエコバックみたいなカジュアルなものがいい。服も、はっきり言ってどうでもいい。できるだけ身体が動かしやすくて、着心地が良ければいい。数もいらない。
年齢が上がってきていて対外的に見せびらかそうという意欲がなくなってきただけかもしれないけれど、私の中の価値観が一周してしまったというのもあるのだと思っている。
少し生意気な見方だけど、田舎から上京してきたものが「東京で成功するってなあに?」と言った時に夢想することを、ある程度経験してきた・または経験できなくても察しがついてきて、憧れなくなってきた、ということなんだと思っている。

■親、そして一次産業への罪悪感
私は小さい頃、生野菜のサラダとか漬物とかがあまり好きではなかった。口に合わないとかではなく、「価値が低い」と思っていた。それだけじゃなく、”野菜そのもの”という料理全般が、私にとって”貧しいもの”だった。
今になってわかるけど、これはある意味すっごく贅沢な病で、つまり、農家の娘である私にとって野菜は日常的に家じゅうにあって、しかも買いたたかれる代物だった。ただで人に配るものだったし、余れば庭先で腐っていくもの。都会にあこがれを持つ子供からすると、それは社会的に”低層”なものだった。だから、その野菜をまるっとつかった料理は嫌いだった。
小学生の時、友達数人が家に遊びに来たことがある。朝から晩まで畑か作業場で仕事をしている母がわざわざ手を止めて、おやつの準備をしてくれた。取れたての新じゃがを使った、じゃがバタだった。
今はわかる。それはすっごい旨い。こうやって書いているだけで唾液が出てくる。
にもかかわらず私は、せっかく来た友達に対して”貧しいもの”を出された、つまり私が”みじめな子”に見られるようなことをされた、と感じた。憤慨した私は、「こんなもん食べれるか!」と怒鳴って家を飛び出した。

そんな記憶がふっと浮かび上がってきたとき、自分、すっごい酷いことをしていたって気づいて、メットの中で大泣きした。なんて馬鹿なことをしたんだって。酷すぎだろうって。

農家の娘が”どうせ私なんて農民で、農民であることは価値が低い”と思い込んでしまうような社会の風潮。
そこで、あーっ! と思った。
「東北食べる通信」の高橋編集長が言っていることはこれか!「一次産業の立場を上げたい。」そうか、確かにこの意識を現場から取り払わないと、一次産業はどんどん廃れていくんだ、と。
もしかすると、再び一次産業に向き合おうとしている自分は、もしかしたらあの時のじゃがばたと両親への償いなのかもしれない。そして自分をもう一度正しく見つめて自分で自己評価を再構築していくための過程。

 

・・・と、そんなことをつらつら思いながらひた走っていると、日がだんだんと登ってきた。
冷えていた体が温まる。虹のような、薄紫ともピンクともオレンジともつかない不思議な色が空に広がる。

『再生』

そんな言葉が浮かんだ。
最初の日差しが身体を差した。32歳になって最初に浴びる日の出の光。

watasi

自分の中の、東京にいたら向き合えないような深いところにある感情と向き合えた旅。
自分の古い部分にあるものや深い部分にあるものと向き合うことで、初めて新しい一歩が踏み出せる。

最高の1年の幕開けだと思った。
この1年、面白いものにしてみせよう、と思った。

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