本州最北端の地・佐井村への旅② ~漁師が舞う歌舞伎の美~

昨日エントリーした『本州最北端の地・佐井村への旅① ~この世ではない海・仏ヶ浦~』の後編となります。

そもそも、今回の旅の目的はこのタイトルにもなっている「歌舞伎」でした。
「歌舞伎」と聞くと、一部の限られた家柄の人しか舞ってはいけない格式高いもの、というイメージがあります。しかし、この本州最北端の村には歌舞伎があるのです。しかも、踊り手のほとんどは漁師だというのです。
この話を聞き、いくつかの写真を見たとき、私の魂は”呼ばれました”。

『あなたは、ここに行かなければ一生後悔をする。いま、行かなければならない。』

と。

実を言うと、3月は金銭的にも体力的にも限界を感じていました。
特に、2月下旬から謎の突発的な発熱が続いていて、青森に行く2日前にも38.5℃の熱を出していました。

しかし、何物にも代えられない何かが、この「漁師が舞う歌舞伎」という言葉から伝わってきました。
行かねばならない、と、心が訴えました。

 

さて、前編の仏ヶ浦から移動し、佐井村の中でも「牛滝地区」という、人口100人くらいの集落に移動して、夜は地元の漁師さんと懇親。獲れたての生きたイカのさばき方を教えてもらい、新鮮な 海の幸をたくさんいただきました。

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漁師さんって、なんでこう気持ちがいいんでしょう。
飾らないからこそ安心できて、大らかで心が広くて、でも熱い。

それもステレオタイプな私の印象だけかもしれませんが、でも、当たらずも遠からずだと思います。

楽しい夜はあっという間に過ぎて、いよいよ歌舞伎を見るときが来ました。
そもそも論で、なぜ本州最北端の村に歌舞伎が伝わっているのでしょうか?
答えは、江戸時代から明治時代にかけて栄えた「北前船」にありました。

北前船は運搬船とは違い、あちこちの港で買ったものを他の地域に売って収益を上げる、船の商社でした。
そして佐井村は、この船の停泊地のひとつとして栄えました。
その船が運んできたもののひとつに、上方で流行っていた歌舞伎がありました。
明治の中期に佐井に入って来た歌舞伎の文化は地元に根付き、漁師たちの中で受け継がれてきました。

しかし、この歌舞伎は口伝で伝えられ、資料なども特に残していませんでした。
また、地区によっては家ごとに演じる役を世襲してきたということもあり、人口減少や、踊り手が家族に伝えきる前に早く亡くなったりするなどして、衰退の一途をたどってきました。実際に、佐井村の中でも「磯谷地区」と「川目地区」には、歌舞伎が伝承された形跡があるものの、すでに途絶えてしまっているそうです。
今回は、現存する「福浦地区」と「矢越地区」の歌舞伎を見ることができました。

最初に訪れた「福浦地区」。
立派な演舞場「歌舞伎の館」が建てられ、立派さに驚きました。
そこには数百人の観客が集まっています。人口100人くらいの集落に、です。
いかに歌舞伎が人気かわかります。

私たちは最初に舞台裏に通してもらうことができました。

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化粧を施してもらうその様子は、静謐で、厳かでした。

そして舞台は幕を開けます。

最初に演じられた「三番叟」の一部。
純粋にクオリティの高さに驚きました。
これを見るまでは、「漁師さんが空いている時間に練習した踊り」というレベルを想像していましたが、ものすごく失礼な想像でした。そういうレベルを超えて、文化として、芸能として、すばらしいのです。

その一方で、「村らしい光景」もありました。
観客が舞台に投げ花(ご祝儀のお金を舞台に置く)をするのですが、演じている真っ最中に、大きな音を立てて舞台にご祝儀袋をたたきつけるのです。

大きな音を出すのは、気合を入れるためだそうです。
近隣のじっちゃばっちゃがこぞって舞台を叩く様子は愛らしくもあり、歌舞伎が村ぐるみで大事なものであり、顔を見知った住民たちが演じるのを、心から応援している雰囲気が伝わってきました。まさに、村一丸となって取り組むのが、この漁師歌舞伎なのです。

今回演じられた「一ノ谷嫩軍記」は、学校の古典の時間でもおなじみの、源平合戦の一幕です。
熊谷次郎直実と、敵方の平敦盛に扮している実子・小次郎の命がけの取っ組み合いは圧巻でした。

歌舞伎の最後には「昔神楽」と言って獅子舞が躍ります。
個人的に、この獅子舞の迫真の踊りは息をのむものでした。

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最後に演者たちがそろって会場に礼をして、福浦の歌舞伎は幕を閉じました。

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今こうして記事を書いていいるだけで、また胸が熱くなるような、そんな歌舞伎でした。

 

次に、「矢越地区」に移動して歌舞伎を鑑賞しました。
こちらは最初の会場と違って「村の公民館」という雰囲気でしたが、やはり100人以上は観客が入っていました。

先ほどの福浦の歌舞伎と同じく最初は「三番叟」(舞台を清める効果があるそうで、最初に踊られます)。
同じ演目でも、場所が変わると踊りや雰囲気が変わります。

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次に「絵本太閤記第十段 夕顔棚の場」。
羽柴秀吉に追われた明智光秀が、誤って母親を殺してしまうという話です。

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最後に「白浪五人男 稲瀬川勢揃いの場」。
伊達な男たちが稲瀬川に架かる橋を背に見栄を切ります。その艶やかなこと。

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「矢越地区」の歌舞伎は何度となく消滅の危機を乗り越えてきました。
長らく踊られなかった時期もあったのを、近年年齢や地域・性別に関わらず後継者を受け入れるようにして、受け継がれてきました。これからどういった進化を遂げていくのか、非常に楽しみです。

 

こうして、あっという間の佐井村への旅は終わりました。
か、しかし、終わりではありません。
佐井村は、私の中にしっかり刻まれて、「また必ず行く場所」になりました。

今度はクルマで行って、自由気ままに浜を散策したり、恐山に行ったり、三十三観音巡りしたり、ひばの木で木工芸に取り組んだりしたいです。また、必ず行きます。

魂が呼んでいた場所は、魂が呼ぶに相応しい文化と人の情熱と海の幸に恵まれた土地でした。
福浦の歌舞伎を見た際にお土産でもらってきたひばの箸の香りを嗅ぐと、こころが、ざわっ、とします。

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